第三代校長 渋沢栄一
第三代校長 渋沢栄一
渋沢栄一とは
「日本の資本主義の父」と呼ばれる明治の実業家 渋沢栄一(1840-1931)。2024年度に執行される紙幣改定で、新一万円札の肖像に選ばれたこと、さらには2021年NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公となったことにより、あらためて世の中の注目を集めました。本学にとって渋沢栄一は、創立者 成瀬仁蔵を支えて日本で初の組織的な女子高等教育機関 日本女子大学校設立に携わった一人であり、さらに最晩年に本学の第三代校長を務めた、非常にかかわりの深い人物です。
埼玉県の富農の家に生まれた渋沢は、幕臣として渡欧し、明治新政府の大蔵省の官僚になってからは各国の近代的産業設備や経済制度を見聞した経験を生かし、諸制度の立案や改正に着手しました。1873(明治6)年に辞職した後は民間の経済人?実業家として、資本主義経済を日本に根付かせ、金融?紡績?海運?鉄道等、約500 もの企業の創設?育成に携わりました。
成瀬仁蔵との出会い
渋沢は、実業界以外の幅広い分野にも目を向けて活動を展開しました。その一つが教育事業です。実業教育として、一橋大学(商法講習所)、東京経済大学(大倉商業学校)などの設立に尽力しただけでなく、「女子に学問は不要」とされてきた時代に女子教育にも注力し、日本女子大学校や東京女学館の創立に関与しました。
成瀬仁蔵とは1896 年大隈重信を介して出会い、成瀬が抱く女子教育の熱意に動かされて創立委員(会計監督)となります。本学が創立するまでに2,500 円(現在の貨幣価値で約1,000 万円)を寄付しています。大学創立以降は評議員に就任し、経営をはじめあらゆる支援を惜しみませんでした。
第1回運動会
体育教育を重んじていた成瀬は、開校した1901 年10 月に第1回運動会を開きます。
学生や教員等関係者500 名が一堂に会する行事に、渋沢は自身の邸宅(飛鳥山、現在の北区王子)の庭を開放します。
この運動会は、借り物競争や日本式バスケットボールなど30種目のプログラムが並ぶ盛大なもので、後年、学外の来場者を集める名物行事となりました。(2 回目以降は目白の運動場で開催)
晩香寮(ばんこうりょう)
「晩香寮」(渋沢自身が命名)が竣工します。純洋風のこの寮で学生たちは、英語を修練し洋風生活の実験を試みました。
晩香寮は、寮としての使用を中断した時期もありましたが長く存続し、1979 年3 月に閉寮しました。
成瀬仁蔵の盟友として
成瀬と渋沢の交流は大学の運営にとどまらず、社会活動にまで及びました。
1910 年には女子高等教育の重要性を地方にまで広めるべく、森村市左衛門と3 人で北越地方の講演旅行に赴きます。さらに1912 年には成瀬の呼びかけにより、東西文明の交流?世界人類の平和の増進を目指す思想団体「帰一協会」の設立?運営にも評議員の一人としてかかわりました。この帰一協会はのちにアメリカやイギリスにまで活動を広げ、1942 年に解散しました。
成瀬は1919 年、病没します。雑司が谷墓地に眠る成瀬の墓の碑文の撰と書は渋沢の手によるものです。
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女子教育奨励巡回講演にて演壇に立つ渋沢
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帰一協会会員の集まり。軽井沢三泉寮大もみの木の下で
第三代校長就任
渋沢は成瀬の没後も卒業式や創立記念式に来校し、学生たちへことばをかけました。
麻生正蔵第二代校長の後を受け、第三代校長に就任したのは1931 年4 月。
同年11 月に没するまでの短い期間でしたが、学生たちは渋沢の追悼会を12 月18 日、現在の成瀬記念講堂にて開催し、「私達のやさしい御祖父様」を偲びました。
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校長就任式の日
学問を全くさせて、ここにはじめて立派な社会国家ができるのではないかと思います。
こう考えますと、教育を受けられたるご婦人方は、自ら任ずること多くして社会に立たねばなりません。
─昭和2 年卒業式祝辞より