創立者 成瀬仁蔵
創立者 成瀬仁蔵
生い立ち
成瀬は1858(安政5)年6月23日、現在の山口県山口市吉敷に士族成瀬小右衛門、同歌子の長男として生まれました。吉敷は長州藩主の一族吉敷毛利家の領地であり、成瀬家は代々その祐筆をつとめ、漢学の素養深く、教育家の家として知られていました。
幼少のころは幕末の動乱を身近に見ながら、郷校憲章館に学び、長じては、明治維新の変革によって禄を失った父の家塾を手伝い、山口県の教員養成所に学び、小学校長などをつとめました。
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創立者 成瀬仁蔵
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成瀬の故郷 吉敷
キリスト教との出会い
この間に7歳で母を失い、16歳のときに弟と父を失い、死に向き合う体験をもちます。そして同郷の先輩であり、アメリカに留学し、宣教師として著名な澤山保羅(ぽーろ)に導かれ、大阪の浪花教会で受洗します。キリスト教との出会いは、儒教的な人間観、ひいては女性を劣った者としてしか見られなかった人間観から、神の前の人間の平等への飛躍でもありました。「聖書を持つ青年」といわれた成瀬は、梅花女学校(現在の梅花女子大学)の主任教師となり、次いで大和郡山教会、新潟教会の牧師として、熱烈な伝道活動を行います。また、新潟では新潟女学校を興し、女子教育に尽力します。
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浪花教会
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新潟女学校
アメリカ留学
1890(明治23)年末、新しい展望を求めてアメリカにわたります。アンドーバー神学校つづいてクラーク大学に学び、女子教育の球天下体育を行い、同時に教育機関は勿論、社会事業施設に至るまで幅広く調査球天下体育を行い、英文の『澤山保羅伝』も出版して、1894(明治27)年1月に帰国します。
女子大学設立運動
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女子教育
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開校当時の正門
懇願されて、一時、梅花女学校校長となりますが、本格的な女子高等教育機関の設立を意図して、『女子教育』を出版。そこでは「第一に女子を人として教育すること、第二に女子を婦人として教育すること、第三に女子を国民として教育すること」という女子教育の方針を示し、女性が人として自立し活動することを期して、世論を喚起しました。そして資金難とも戦いながら東奔西走し、多くの有力者の支援を得て、1901(明治34)年、ようやく目白の地に本学の開校をみたのです。
女子教育から社会改良へ
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毎月会のメンバーと
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帰一協会の活動でアメリカへ
創立後は、教育界での活動は勿論、ジャーナリズムにも発言を重ね、1912(明治45)年以降は、世界の思潮を調和し、文化思想の交流をはかることを目標とした帰一協会を設立、また、政府の教育関係委員として活躍しました。
告別講演
精力的に活動をつづけていた成瀬は、1918(大正7)年秋、内臓に違和を感じ、翌年1月より病の床につきました。肝臓癌であることが明らかとなり、1919(大正8)年1月29日、講堂に学内外の関係者を集めて告別講演を行いました。有限の肉体から無限の生命に入るとの死生観を述べ、後継者に後事を託して、同年3月4日、永眠しました。